「左利きの憂鬱」の日記

思い通りにならない日々でも、腐らずに生きていく。

男なら天下を取る手相の持ち主。

それが、私の母である。

母の兄弟は、弁護士、証券会社の役員、建設会社の役員と皆やり手である。父方の芸術職人肌とは全く違う。母方は商人気質で臨機応変である。母方の父、つまり祖父は土地持ちの商人であった。気前も良く、親分肌であった。ある時、知人の連帯保証人となった。お察しの通り、裏切られて、根こそぎ全て持っていかれたのである。そのきっかけが、長男を弁護士にした。

 

母は九州の大分県杵築市で育つ。

当時の九州男の考え方は、明らかに「男尊女卑」であり、「男は勉学、女は芸事」という考えを強く持っていた。祖父も例外ではなく、その考えの下で育てられた母は、茶道、書道などの芸事中心の生活を送り、高校卒業後、上京。「芸」違いの芸能界に入り、タイムキーパーとして働いたというのは、先述の通りである。結婚、出産し、専業主婦となった母が、大人しく家に篭っている訳もなく、書道では何かしらの大会で金賞をとり、一緒に武道館に見に行った事もある。茶道では、トタン屋根のボロい借家に、結構な数の弟子をとり、教えていた。茶道では、懐石料理もふるまう事もあり、すり身の手伝いを父と一緒にやったものだ。現在は、趣味程度に茶道は教えているが、茶道教授という裏千家側の立場にまで昇格している。余談ではあるが、「冬のソナタ」が流行った時、御多分に洩れず、ヨン様のファンとなり、韓国語をマスターしたのは本当にスゴイと思った。つまり、母はストイックにやり過ぎるタイプなのだ。

 

この母と、顔も体質もよく似ている。

カメラマンなのに、俳優の代わりを務めるような上品で甘い顔立ちの父に似ていたら、また人生も違っていただろうに、悲しいかな母に似ているのだ。そして、体質もだ。前述の通り、タイムキーパー時代の母は心身共にハードな環境下にあり、私を生む時は、閉所恐怖症持ちとなっていた。その後も、自律神経系はあまり強くなく、よく鍼灸に通っていた。幸いにも、私は閉所恐怖症はない。ただ、自律神経系は弱く、昔から目眩や胃腸が弱い子で、高校生くらいからは鍼灸のお世話になっていた。余計なものは、意外とちゃんと引き継ぐものだ。

 

「男なら天下を取る手相の持ち主」といわれた母の手相は、私を生んだ後、普通の手相へと変わってしまったと言う。しかし、そのお蔭で、私は今も生きている。そして、パーキンソン病となった現在も、何とかなると思えているのは「母の強運」も引き継いだからではないかと思う。